アメリカに行こうか、日本に留まろうか、悩んでいた、1998年5月、ヨーロッパに旅に出た。答えは決まっていたのだが、名目上自分探しの旅。キャセイ・パシフィック航空にて、香港経由で、フランスの空港に着いたが、ユーロパスを持っていたので、真っ先にスペイン・マドリードに向かった。なぜって、物価が安いらしいしから。バーで、ビールジョッキ一杯、おつまみ「生ハム(ハモー)・有名な卵焼きなど」付きで100円くらいだった。フラメンコも見てみたかった。当時まだスペインに行った事も無かったし。マドリードをふらついた後は、セビーリャに向かった。
その時の旅では、ユース・ホステルを利用していた。一泊2500円から3000円位かな?とりあえず、セビーリャでの、1晩目の宿は見つかった。ユース・ホステルは3名以上の共同部屋なので、自分のすぐ後に、チェック・インしてきたカナダ人のKinと知り合いになった。Kinは香港からの移民で、3ヶ月間かけてヨーロッパを回っているとの事だった。僕たちはセビーリャの町を一緒に回った。Kinとは今でもメールをやり取りしている。
ちょっとした問題が次の日に起こった。その日はユース・ホステルが予約で一杯で泊まる事ができなかった。僕たち二人は部屋をシェアする事にし、安宿を探しに向かった。ラッキーな事に、泊まる所は簡単に見つかった。Kinは部屋で休んでいると言うので、僕は町に出た。(Kinは上半身はよく鍛えているようだったが、下半身が弱そうで、歩き疲れたのだろう。)一通りふらついた後、ボトル・ワインを買って部屋に帰った。当時の自分はノンベエだったのである。今からは想像もつかないが。部屋に着くと、Kinが日本人女性3人となにやら話していた。Kinは英語しか話さないし、日本人女性たちは、あまり英語が得意そうではなかったので、どんな話をしていたのだろう?彼女達はKinが日本人だと思って話しかけたのだろう。一人の女性は50歳から60歳くらいで、他の二人に先生と呼ばれていた。他の二人は、その先生のお弟子さんで25歳から30歳くらいだと思う。先生と呼ばれている方は、多才な方で、7つくらいの顔?(仕事)を持っているとの事だった。手相を読む占い師、料理の先生、精神的に病んでいる人を直す先生?、その他四つの顔(仕事)は覚えていない。とにかく霊感能力に長けているらしかった。人の心も読めるらしい。世俗的な僕の心は読む価値も無かったと思うが。そして、旦那さんは、関西系大企業の重役だと言っていたと思う。先生の話す言葉は、僕には、ちょっと怪しく映った。しかし、3人とも性格の良い方達で、明るく、オープンな方達だった。Kinもその3人と仲良くなり、その日の夜はみんなで夕ご飯に行く事になった。夕ご飯の場では、そのレストランで一人でご飯を食べていたPaul(ニュージーランド人)を、先生が折角だから、仲間に入れてあげましょうよとの発案でPaulも夕食にテーブルに加わった。先生は本当にオープンな方であった。Kimも、Paulも、お弟子さん二人も、先生もとても楽しそうだった。自分も楽しかったと思う。食事の後、公園で、先生が星を消して見せてあげるとの事で、先生とお弟子さんが、空に手をかざした。そして、目をつむり、思いを込めているようだった。次の瞬間、星が消えたようだった。正直に言って、本当に星が消えたかは定かではない。先生と、お弟子さんは、「ほら、星が消えたでしょ」と言っている。僕は、まだ、先生を信用していなかった。でも、3人ともとてもよい人達であった。次の日は、みんなで、市内観光をし、その後、Paulはポルトガルに向かい。先生たちは、お弟子さんの一人がスペインに住んでいるので、そこに向かった。Kinと僕は、別の場所に向かった。
Kinと僕が向かったのはマラガ。綺麗な町であった。しかし、Kinとの二人の旅は正直退屈だった。そこで僕らは、もらった連絡先に電話をしてみる事にした。先生達は、お弟子さんの家から、この次は、バルセロナに向かうとの事だった。バルセロナには、日本人経営の安宿があるらしく、そこが良いと、言っていた。先生はその情報をどこから仕入れたかと言うと、お弟子さんが、スーパーマーケットで知り合った日本人バック・パッカーからである。彼は、一年程、アジアからヨーロッパに掛けて旅を続けているらしかった。要するにお金が無くスーパーの食材の前で買うか・買うまいか悩んでいたらしい。そこで、お弟子さんが、彼を家に連れて帰り、先生(料理の先生でもある)がたらふくご飯を食べさせてあげたらしい。彼は、感謝の念で、先生には頭が上がらないと思う。またバルセロナの安宿で合流する事になった。バルセロナには、そのバック・パッカー君もいるらしい。多分、この安宿、地球の歩き方に出ていると思う。
バルセロナの安宿(そこは日本人経営)には、数人の日本人が色々な理由で滞在していた。皆良い人達であった。更にそこには、ポルトガルに向かったはずのPaulも来た。僕は、バルセロナでは、余り先生達と行動を共にする事は無かった。先生と一緒にいると、先生に属しているような気がして、嫌であったのである。ある晩その安宿で先生主催のパーティーが開かれた。先生は、料理の先生としての腕前を披露して下さった。料理はパエリア。そこにいる人皆良い人で、凄く楽しい時間だったような気がする。多分先生のおかげだったのだと思う。定かではない。
その夜だったと思う。先生は、僕の手相は視てくれなかったが、お弟子さんが、僕の手相を視てくれた。お弟子さんは、先生から、手相の勉強もしているらしかった。僕の手相はというと、普通の手相らしい。要するに大成功はしないと。将来を夢見ていた僕としてはがっかり。しかし、もう一つ別の事を言ってくれた。僕の手相は「海外に住む手相だと」。そんな手相あるの?しわの先っちょが二つに分かれているのがそのサインらしい。要するに、アメリカに行こうか、行くまいか悩んでいた自分に「言って来い」とアドバイスをくれたようなものである。その占いは当たっていて、アメリカに9年在住、未だ大成功はなし。ちなみに成功する人の手相は手の平の上にMの字が浮かびあがっているらしい。僕のはそれが弱いと。当時は、無理やり、自分の手相にMの字が見えると思いこもうとしていた。ははは。ちなみに、Kinの手相は成功する可能性のある手相らしかった。
今、思うのだが、バルセロナに滞在していた全員(自分を含む・先生以外)、大小様々な悩みを抱えていたのだと思う。だから、祖国を離れスペインを旅していたのだと思う。
僕は先生の発する言葉に、ちょっと怪しいという気持ちを持っていたし、先生とは若干気が合わなかったのであるが、(多分先生はそれをお見通し)、先生はそういうのも分った上で僕に接していてくれていたと思う。大人の対応、どうもありがとうございました。
その後、僕は、皆さんと本当のお別れをし、パリ(フランス)をふらついた後、日本に帰った。数ヶ月後、アメリカに向け出発。その後、Kinとはバンクーバーで一度お会いしたが、その他の人たちとは一度もあっていない。当時連絡先を交換したのだが、それをメモした手帳を無くしてしまった。またどこかでお会いしたい。それはまたどこかの安宿かな?
今、思うと、出会うべくして、出会った、出会いであったのだと思う。
記憶も定かではないし、うまく表現できなかったのであるが、これは1998年5月前後の自分の過去で一番印象に残っている出来事です。
***ちょっと変な話だけどフィクションでは無いです***
ジャガランダの紫の花がとても綺麗だった1998年5月の思い出。
下記に添付した写真は、バルセロナの安宿で一緒になった方が思い出を写真集にしたとの事で一冊送ってくれた本の写真です。その他のページには先生の写真も、KINの写真も。