梅田望夫さんの、シリコンバレーからの手紙 - 生きるために「読み」「書くこと」で生きるを読み、どうしても村上春樹さんの遠い太鼓 (講談社文庫)が読みたくなり、日本から本を送って貰った。ありがとうございます。自分には読まなきゃいけない本のプライオリティー・リストがあり、プライオリティは低いのだが、読み始めれば、はまれる事が分っており、プライオリティーの高い本を横に置き、ページをめくり始めてしまった。
”はじめに”の中に梅田さんも引用した段落があるのだが、僕もそこが気になる。人が気になるものは、僕も気になる。影響されやすいというか。その段落を下記に引用します。
四十歳というのは、我々の人生にとってかなり重要な意味を持つ節目なのではなかろうかと、僕は昔から(といっても三十を過ぎてからだけれど)ずっと考えていた。とくに何か実際的な根拠があってそう思ったわけではない。あるいはまた四十を迎えるということが、具体的にどういうことなのか、前もって予測がついていたわけでもない。でも僕はこう思っていた。四十歳というのはひとつの大きな転換点であって、それは何かを取り、何かをあとに置いていくことなのだ、と。そして、その精神的な組み換えが終わってし まったあとでは、好むと好まざるとにかかわらず、もうあともどりはできない。試してはみたけれどやはり気に入らないので、もう一度以前の状態に復帰します、ということはできない。それは前にしか進まない歯車なのだ。僕は漠然とそう感じていた。
(一段落スキップ)
それは予感のようなものだった。でも三十も半ばを過ぎるころから、その予感は僕の体の中で少しずつ膨らんでいった。だからこそそうなるまえに、――僕の中で精神的な組み換えが行われてしまう前に――、何かひとつ仕事をして残しておきたかった。もうおそらくこの先、こういう種類の小説は書かないだろう(書けないだろう)というようなものを書いておきたかった。歳を取る事はそれほど怖くはなかった。歳を取ることは僕の責任ではない。誰だって歳は取る。そのは仕方のないことだ。僕が怖かったのは、あるひとつの時期に達成されるべき何かが達成されないままに終わってしまうことだった。それは仕方のないことではない。(ページ15-16)
上記の段落から思いをはせた事:
今、35歳。40歳まで、4年強。あまり沢山の時間があるようには感じられない。僕は村上春樹のように旅に出る必要はない。僕は既に旅の中なのだから。(9年前よりアメリカ在住、アメリカ生活を旅のように感じている。)今、僕がしなければいけない事は、人生のギアをトップに入れる事だと思う。ギアをトップに入れるという事は僕にとって、日々、何を、どのよう生きる事なのだろう?今思いつく事は、無駄を削り、やりたい事を一生懸命やる事だと思う。これ以上の具体的イメージは今のところ沸かない。
無駄を削るというのは、”なんとなく一日が終わってしまった”と感ずる日をなくす事、”この一時間無駄だったな”と感ずる時間をなくす事。やりたい事は、なにか具体的な物が沸いてきたら、また書きます。もし、今日から40歳になる日まで、やりたい事を一生懸命やれたならば、その後、後悔する事は無いと思う。
(*)村上春樹は、37歳から旅にでて40歳まで旅を続けた。その間に、「ノルウェイの森」、「ダンス・ダンス・ダンス」を書き上げている。
お、遠い太鼓読んでるんだ!あれは結構ボリュームあるけど、読み出したら止まらないよ、本当に。
いかにも村上春樹的なイタリアの記述は特に秀逸だと思う。行ったことないけど。
イタリアの町は歩いていて楽しいので、ぜひその内、訪れてみて下さい。
自分もイタリアに出かけたのは10年以上前の事なので、今のイタリアがどうかは分りませんが、ヨーロッパの町を歩いている自分を想像すると楽しい気分になります。